riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">稀代の悪法が参院で可決・成立②──「成立の日から廃止に向けて闘うだけだ」(むのたけじ氏)</span>

特定秘密保護法案が先ほど参議院本会議で可決・成立したことに関して、もうひとつ付け加えたいことがある。
 
これまでも、歴代の自民党を中心とした政権与党は、アメリカとの関係に関わる法案は、何が何でも強引に採決してきた。
今後日本版NSCを実際に運用し、米英などと情報を共有するため、さらには、集団的自衛権を行使するためには、どうしてもこの法案を通しておかなければならないというところだったのだろう。
 
そして、採決を急いだのは、秘密の範囲など、あまりにも欠陥と問題点が多く、内容が知られれば知られるほど国民の反対の世論と運動が広がることを恐れたためである。
しかし、そのことは、今後、圧倒的多数の国民との矛盾を深めることになることは間違いない。
すでに、政府関係者の間では、安倍政権の支持率の急落するのではないかと懸念しているという。安倍政権は、決して「強い」わけではない。
 
 
さて、この秘密保護法案の危険性ということでは、戦前の軍機保護法や、治安維持法などを知っている年配の方たちからは、「戦前と同じ様に秘密はどんどん増える」「再び戦争に突き進まなければいいのだが」との声が出されている。
 
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そうした中で、戦前・戦中の秘密保護の法律がどういうものだったかを振り返る報道がある。
「東京」11月28日付の「特報」の「戦争 民の沈黙から  疑心 人間関係崩す──秘密保護法案 むのさんに聞く」だ。
1週間前に法案が衆院強行採決され、参院で審議入りした翌日のものだ。
秘密保護法案が可決・成立させられたもとで、あらためてかみ締めたい記事だ。
 
むのたけじ(本名・武野武治)さんは、1915年、秋田県生まれの98歳。
ジャーナリストで、戦時中は従軍記者を経験した。

報知新聞社の記者を経て、朝日新聞社に勤務。敗戦の日に自らの戦争責任を背負い辞職した。
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年から30年間、秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を発行。
 
むのさんは、「強行採決は異常だ。秘密保護法は人類が一番大事にしようと決めたこと、つまり主権在民の否定そのもの。国民は義務だけ果たせといわれ、主権は安倍内閣が持っているといわんばかりだ」と力強い声で語った。
「秘密保護法を制定する目的は戦争以外考えられない。米国の国際戦略で日本、自衛隊が利用されるということ」

現在の社会の空気を「かつての戦争突入時に似ている」と感じている。

満州事変で日本の中国侵略が始まり、1936年に二・二六事件が発生。
その直後の4月、報知新聞の記者になった。
盧溝橋事件で日中全面戦争へとなだれこんだ37年の翌年に国家総動員法が成立。
戦争遂行に従わないと「非国民」と弾圧される社会が到来した。
 「法律ができただけで、国民を脅せる。これが今回の秘密保議法とそっくりなんだね」
 新聞や出版などの統制が強まったが、実態は自主規制だったという。
内務省や軍部は記事の内容や写真にいちいち文句を言わなかった。だけど、その前に新聞社側が二重、三重に自分たちで検閲するんだよ」


むのさんは中国で従軍記者をした後、40年に朝日新聞ヘ。
日米関戦の日は会社から一斉に電報で呼び出された。
「戦争が始まった、米国の軍艦を沈めたらしい、そんな断片的な会話が交わされた。
開戦について誰も知らなかったと思う」
「敵国を欺く前に自国民をだますのが戦争の秘訣。そのために必要なのが、国民を脅して見ざる・言わざる・聞かざるにする『三ザル法』。今の秘密保護法はまさにそれだ」
新聞社内の空気も一変し、ニ人で話すのはよかったが、三人以上だと「あいつは非国民」と当局に密告されたとき、特定できないため、社として情勢をどう報道するべきかを大勢で議論する場も消えた。
市民生活でも、戦死した兵士の家を訪れると、直前まで号泣していた妻が「お国のためで良かった」と軍国婦人を演じ、非国民にされぬよう本心を偽り、親子や近隣同士でも疑心暗鬼になった。
「日本中の人間関係はずたずたに裂かれた」
疎開学童を取材に行くと「家に帰るためなら、富士山にだって登る。なぜ私たちはこんな苦しい目に遭うのですか」と子どもに聞かれた。
「原稿を書きながら泣いたのはあの持だけ。何のための戦争なのか、国民はまるで分からない。最初から秘密だったからです」

最後の部分は全文引用したい。
 
 ジャワ戦線の従軍記者だった423月、連合軍が通ったインドネシア西部の集落に行くと、女たちが乱暴され、助けようとした男たちが殺されていた。
「男が戦場でどうなるか。性行為しか生きる実感がない。戦争は人をケダモノにする」
 軍の輸送船に乗っている時に「襲った女性を子どももろとも殺して、証拠隠滅のために火を付けた」という兵士の会話も聞いた。
「そういうことは一字も書かなかった。だって国の方針に逆らう非国民になるからね」
 社内ではポツダム宣言の受諾を、事前の812日に分かっていたという。
だが、玉音放送を待つということになり、報道はしなかった。
記者として自らの戦争責任を取ろうと、辞職した。
 むのさんに秘密保護法の反対運動には若い世代があまり見あたらないのでは・・・と聞くと「パカにしちゃいけないよ」という答えが返ってきた。
 「若者は自分たちが一番被害に遭うんだからビンビン伝わるはずだ」
 むのさんの人生訓は「抵抗するなら最初に抵抗せよ。途中で泣くな」。
そして「あきらめること自体をあきらめよう」。
 このまま秘密保護法案が成立したらと聞いても、むのさんは「悲観することはない」と明るい口調を崩さない。
 「成立の日から廃止に向けて闘うだけだ」

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あわせて、「金融恐慌から『軍国』加速」との見出しで、戦前から戦中にかけ、この国はどう民衆の自由を縛り上げたのか、についてかかれている部分と歴史年表も引用したい。


 大正デモクラシーの機運が高いころは社会運動の側も強かった。
 
1918年に冨山の米騒動が全国に広がり、ロシア革命の影響で激化した労働運動などを弾圧するための過激社会運動取締法案も22年、報道機関などの反対で廃案になった。
 だが、25年に普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が成立。
27年の金融恐慌で社会不安が増大したころから政府は巻き返しを図っていく。
 28年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑と定めた。
改正に反対した山本宣治衆院議員は右翼の暴漢に殺害された。
30年から33年にかけ、共産主義に共感を抱いているとして、多数の教員を処分した。
 満州事変後は、軍の青年将校によるテ口やクーデター未遂が相次ぐ中で軍国主義への傾斜を強めた。
治安維持法の違反者は「転向」後も徹底的にマークし、政府批判の怪文書も取り締まった。
 国家総動員法の施行や大政翼賛会の発足で日常生活の統制を強化した。
41年に国防保安法を公布し、外交・財政・経済上の「国家機密」の取得を制限。
42
年には無実の編集者らが獄死した「横浜事件」も起きた。
 
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「戦前・戦中の統制強化の歴史」

1918
年 富山で米騒動。全国に広まる。大正デモクラシーの機運が高まる
 22年 過激社会運動取締法案が廃案。吉野作造や報道機関の皮対運動が奏功
 23年 関東大罷災で戒厳令社会運動家朝鮮人が虐殺される
 24年 護憲三派内閣が成立。選挙での政権交代が実現
 25年 普通選挙法と治安維持法が成立
 27年 金融恐慌。社会不安から軍部が台頭する契機となる
 28年 治安維持法改正。最高刑は死刑。41年の改正で予防拘禁制度を導入
 30年 教員赤化事件。33年までに多数の教員が共産党シンパとして摘発される
 31年 満州事変起きる
 32年 五・一五事件。海軍の青年将校らが犬養毅首相を殺害
 33年 作家の小林多喜二特高警察の拷問で死亡
 34年 文部省に思想局を設置
 35年 天皇機関説美濃部達吉貴族院議員が辞職
 36年 二・二六事件。陸軍の青年将校高橋是清蔵相を殺害。思想犯保護観察法を公布。不穏文書臨時取締法成立
 37年 日中戦争始まる。軍機保護法を全面改正。適用範囲を拡大し、厳罰化
 38年 国家総動員法の施行。財産などの制限が可能に
 40年 大政翼賛会が発足。町内会などを通じ、日常生活を統制
 41年 国防保安法を公布。外交・財政・経済上の重要情報が「国家機密」になる。太平洋戦争始まる。言論出版集会結社等臨時取締法を公布
 42年 横浜事件。編集者ら4人が獄死
 45年 敗戦
 
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むのさんが体験したような国民弾圧と戦争の時代を再び繰り返さないために、悲観している暇はない。
 
廃止に向けての新たなたたかいの始まりだ。
 
 
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転載元: TABIBITO