<span itemprop="headline">続富山・博物館と佐藤記念美術館</span>
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昨夜の相棒、後味悪い最終回と思いましたが皆さまはいかがでしたか。
相棒ファンの天使さんはもうすでに旅たたれてしまいました。
近所のごみ屋敷の方が亡くなられていました!
季節の変わり目は厳しいです。
皆さん心配してました。自転車が何台も家の周りや屋根にも積み上げられていて部屋の中は寝る場もなく…よく外出されていたのに、区役所の方が訪問したらすでに…悲しいことです。
ホテルに着いてから歩いて行ける郷土博物館と佐藤記念美術館に行きました。
前回のステンドグラスの橋からすぐの所です。
行きは雪は残っていましたが降っていませんでした。
鷺も魚を待ち構えていました。
この赤い橋渡ると右は広い広場、工事中、左は庭園になっていました。
この緑の屋根が素敵でした。佐藤記念美術館です。2つのミュージアムセットがお得です。
外観から、通称富山城と呼ばれる。
復興事業がほぼ完了し記念に行われたのが1954年(昭和29年)4月11日 - 6月4日、富山城址で開催された富山産業大博覧会であった。ポスターによれば、富山県と富山市の主催、魚津市参加、国鉄後援であった。通称、富山博といわれ、会場は富山市城址公園附近一帯と魚津会場を設けて、観覧時間は午前8時30分から午後5時30分までであった。47万人が入場した[2]。4億円の予算で、電気・薬を展示の売り物とし、自治体館(後の市庁舎を展示施設としていた)として東京館、北海道館が設定された。
建物の外観は彦根城や犬山城など、全国の現存天守を参考にデザインされた慶長様式で、会期中は「美の殿堂」として美術展などが開かれていた。構造は複合連結式望楼型3重4階(天守)2重2階(小天守)で RC造である。当時は天守展望台から、富山市街はもとより北アルプスや富山湾まで見渡すことができた。模擬天守はその時に復興のシンボルとして作られた記念建造物であるため、その後、多くの人が親しみを込めて富山城と呼んだ。
富山も空襲にやられました。
金沢は無事だからレンガの建物も残っています。
先にこの佐藤美術館へ。
木象嵌が珍しい、渋い!
地元財界の有力者であった佐藤家(佐藤助九郎の子孫にあたり佐藤工業などの経営にあたっていた)などによって財団法人佐藤美術館が設立され、1961年9月に、富山城址内に佐藤美術館が開館した[1]。開館に際し、もともと佐藤家の住居の一部であった総桧造りの書院座敷や茶室2席が寄贈され、美術館の一部として移築された[1]。1963年には館名・法人名を富山美術館と改称した[1]。1991年から1993年にかけて増築が行われ、1998年には館名・法人名を富山佐藤美術館と改称した[1]。収蔵品の大部分は佐藤家から寄贈されたもので、茶道具類、古陶磁、日本画、墨蹟など千点以上に及ぶ[2]。また、岸駒、岸岱父子の作品や史料も収集し関連する企画展が行われたこともある
二階の茶室の欄間は見事でした、力強い菊。
アールデコの大きな手鏡もありました。
入ると左側に茶室があったのでお菓子とお抹茶を頂きました。
蝶のお菓子
ホット一息、見学者は私一人。博物館のほうは数人。
佐藤美術館なかなか良かったです。絵や蒔絵など撮影禁止なので。
この庭を挟んで博物館と美術館が対峙しています。
美術館出たら雨になっていました。金沢もそうでしたがお天気かと思うと雨になり…友人は10月ころからどんよりするから鬱になる、このぐらい良いほうだと言います。
この後お城の形の博物館へ。
でも3月までは土・日のみのバスで往復歩いてこの日は13000歩ぐらい歩けました。
ランチのきときと海鮮丼は写し忘れ
夜は鮨1貫ずつ出てくるので写せませんでした。
画像はお通しのブリ大根
母は一人でランチなど出来ない人でした。
気がひける方は開店間もなくは入りやすいと思います。
一人旅多いので慣れましたが海外では最後には面倒になり食事抜くこともありました。
イタリアのレストランは開店は7時からと遅くて庭めぐりで疲れているとホテルで寝ていたほうが良くなり…
日本は夕食早くから食べさせてくれるので便利ですね。
昼2時で閉店は困ることもあります。
ホテルでちょっと休んでから劇場へ。
車でない時はホテルは駅近いのが便利。新聞、ウエルカムドリンク、
女性には化粧品セットももらえます。
枕も高くなくてよかった。足乗せクッションも頼めばあったのです。