<span itemprop="headline">助けてください!学院倶楽部からのメール</span>
昨日ご紹介した「高江をまもれ!名古屋アクション のお知らせ」に続きまして、
沖縄・高江についてお伝えします。
遠い南の島で、ということでなくて、本土も明日はわが身となります。
昨日、28日付けの山本太郎オフィシャルブログから「助けてください」です。
国は住民に攻勢をかけてきそうだということで、
何より、皆が集まることが、数で上回ることが、権力の横暴を防ぐ方法となります。
日本でこんなことを言わなければいけない情勢になっているのです。
(引用開始)
(引用終わり)
「高江をまもれ!名古屋アクション のお知らせ」をご紹介くださった表現者カフェの方が、3月の「ザ・思いやり」上映会の際に教えてくださったことが、上記に含まれていますね。
(引用開始) https://mobile.twitter.com/masaru_kaneko/status/757698908545880065?p=v
@ masaru_kaneko | ||
戦前と似た状況になってきた。過去の失敗と愚かさに対する反省を忘れないためには歴史から学ぶ以外にない。メディアが政権におもねて矜持を失い、人々が自己利益や昇進以外に関心を失う「凡庸な悪」に陥る時、ユダヤ人を収容所に送るアイヒマンを生んでしまうのだ。同じ間違いを繰り返してはいけない。 |
(引用終わり)
去年の9月18日、国会前勝で金子は「今日はクーデターの日。皆さん、今日が何の日だか知っていますか?関東軍が勝手に満州事変を起こした日なのですよ。」低い声で、そう言っていた。
歴史をきちんと学ぶことが大切なのだが、今、それをやっていない。
小泉内閣だってもう過去の過去だろうね。
※続おまけ
(引用開始)
われわれの世界は今、幸福な光の中にはない。人間は自分たちに与えられた知力によって、自然が知らなかったような暴力をさえ手に入れた。この技術は、一世紀前には思いもよらなかった仕方で生命体メカニズムそのものに加工を加えようとしている。人間が得たこの暴力はわれわれが言葉を用いることができるからこそ可能になったのである。
このように、神を忘れ、あるいは否定し、ロゴスに「聖なる」価値を与えない現代人が、一方では「聖なるもの」を求めている。
「聖なるもの」は神とはかぎらない。それは超自然的なものである必要もない。崇高なものばかりが「聖なるもの」ではない。われわれの生において新しい勇気を与えるもの、それが「聖なるもの」である。現代のわれわれの社会生活一般の中にあって「死へと向かっている存在」であるわれわれに勇気を与え死に向かって進みつつあるわれわれの生によみがえりを約束するものはどのようにして求められるのか。
神が世界を創造したのであり、世界は神でもなければ神の一部でもない、というのが、キリスト教的世界一般の考え方であった。もっとも、眼前に展開される現象世界が神のあらわれであるというように汎神論的に考えた人々がいないわけではなかったが、その場合も神の力が宿る場として世界が位置づけられるにすぎなかった。そのように、神の存在を前提にすることなく、したがって神から世界を説明するのではなく、世界に「聖なるもの」の価値を見出す方法はないものであろうか。言葉とともにある神からではなく、言葉自体のよみがえりによって、この「聖なるもの」を得ることができないものであろうか。
(引用終わり)
聖なるもの と 俗なるもの。
自己を否定していって悟りに至り、即座に濁世に立ち戻ってくる聖なるもの。
合掌