<span itemprop="headline">天正遣欧少年使節伊東マンショの肖像</span>
「伊東マンショの肖像」伊 ドメニコ・ティントレット筆 1585年 ミラノ、トリヴルツィオ財団蔵 Fondazione Trivulzio - Milano *1は日本でも初めてその存在が知られた油彩の肖像画です。
有名なティントレットの息子が描いた立派な絵です。
ういういしい東洋の少年像
伊東マンショは代役であったそうですが正使となりはるばる2年6ヵ月もかけてローマへ。
宇宙旅行より危険だったでしょう、船酔い、海賊、疫病…
4人の少年が無事役目を果たし帰国出来たのは奇跡としかも思えません。
ローマ法王やスペインのフェリペと謁見するなど華々しい活躍
でも帰国したら秀吉の禁教令が出ていていたのです。
マンショは病死ですが中浦ジュリアンは信徒を気使いながら
逆さ吊りにされ殉教。すぐには死ねない残酷な拷問死
いつの時代も権力は残酷、
儲かると思いキリスト教を受け入れたが
領土的野心があると思えば弾圧、禁止令
キリスト教の一夫一婦制、神のもとには平等は庶民には歓迎でも
権力者にはゆゆしき問題でしょう。
高校生の時に遠藤周作「沈黙」を読み映画も鑑賞しました。
スコセッシ監督の「沈黙」が出来たそうです。
本読んでいてあまりにも残酷な家光等のやり方に
「転んでもいい、転んでください」と思ったものです。
ジュリアンは役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている。
ジュリアンの手紙、マリア像http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/250956.html
2016年の日伊国交樹立150周年を記念し、日本とイタリアを結ぶ最初の架け橋である天正遣欧少年使節を描いた「伊東マンショの肖像」を世界で初めて公開いたします。
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名代として長崎を出航した天正遣欧少年使節4人とその一行は、長い船旅ののち、輝かしいルネサンス期イタリアの地を踏みました。天正13年(1585)にはヴェネツィア共和国を訪問。その折、共和国元老院が4人の肖像画をヤコポ・ティントレットに発注したことが知られ、その息子ドメニコ・ティントレット(1560~1635)が完成させたものがこの肖像画とみられています。
今回は、当時のイタリアで刊行された「天正遣欧使節記」やキリシタン資料中のイタリア関連作品をともに展示し、16~18世紀にキリスト教を通じて交流した日伊の姿をご覧いただきます。http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1793
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名代として長崎を出航した天正遣欧少年使節4人とその一行は、長い船旅ののち、輝かしいルネサンス期イタリアの地を踏みました。天正13年(1585)にはヴェネツィア共和国を訪問。その折、共和国元老院が4人の肖像画をヤコポ・ティントレットに発注したことが知られ、その息子ドメニコ・ティントレット(1560~1635)が完成させたものがこの肖像画とみられています。
今回は、当時のイタリアで刊行された「天正遣欧使節記」やキリシタン資料中のイタリア関連作品をともに展示し、16~18世紀にキリスト教を通じて交流した日伊の姿をご覧いただきます。http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1793