続西尾の近衛邸、西尾城
もし画像が消えていましたらこちらをどうぞ
チカさんやbalさんが西尾をUPされていて
すっかり続きを忘れていました。
チカさんによると今の和菓子は「新緑」
12日の徳川美術館では柏餅で650円でした、写真撮り忘れました。
木彫りの兜
奥の茶室へ。
西尾城の歴史は古く、承久の乱(1221)の戦功によって三河国守護に任じられた足利義氏(あしかがよしうじ)が築城した西条城(さいじょうじょう)が始まりと伝えられています。足利氏は吉良氏(きらし)と名を改め、この吉良荘を統治しますが、群雄割拠の戦国時代には、城主が牧野成定、酒井正親、田中吉政と入れ代わり、これに従って城域も拡大しました。天正13年(1585)、家康の命により「三河の人夫を挙げて」城が築かれ(『三川物語』『家忠日記』)、これが近世の西尾城の基礎となりました。さらに田中氏の頃に三の丸が造営され、城郭が確定されました。
慶長6年(1601)に本多康俊が西尾二万石の藩主として入城し、その後も松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と城主は譜代大名の間で次々と代わりました。六万石の西尾藩となったのは、明和元年(1764)に山形藩から大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)が入城してのこと。松平氏は代々老中などの幕府の要職を務め、以来、廃藩となるまで5代続きますが、明治維新を迎えると城は天守閣を始め、ほとんどが取り壊されました。
西尾城の特色は、天守が本丸ではなく二の丸にあり、城下に士農工商が混在していたこと、「総構え(そうがまえ)」といって城下町の周囲を堀と土塁で囲んだことです。城郭図や平成6年の発掘調査によって平成8年に再建された本丸丑寅櫓(ほんまるうしとらやぐら)は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられた櫓で、城内の隅櫓のうち一番高い建物でした。三層、高さ約10メートルの木造本瓦葺、壁面上部は漆喰塗籠、腰部は下見板張りとなっています。
真ん中あたりに亀さんたちが甲羅干ししていました。
尚古荘や学校は次回に。
|