riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

田中一村と空白のカルテ:ハンセン病書かずに抵抗した医師描く

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地元の劇団の「空白のカルテ」楽を鑑賞しました。
紹介して下さった西さんももちろん鑑賞されました。
 
 
以前鑑定団に出てきた田村一村と小笠原登医師の関係
 
思い出しました。
 
愛知県出身でハンセン病患者のために空白のカルテで抵抗した医師がいた。あの官憲の厳しい時代に。
 
小笠原氏は大学の医師になっても学生服のボタン取り替えただけで仕事を続けました。
 
さらに松下竜一、小出先生とのつながり
 
感染力が極めて低いのに強制的に家族と別れさせ、橋もない島などに隔離、子孫も残せないように手術させられ、療養とは名ばかり、強制労働、何重にも差別された方々、
亡くなっても遺骨は故郷へ帰れない…
日本にはこんな話が山ほどあります。
 
先日の毒ガス島も、原発労働者も同様です。
 
ハンセン病については松本清張砂の器遠藤周作「私が・捨てた・女」や松下竜一の本でも読みました。
音楽座の舞台でも。
 
神谷美恵子さんも通われました。名著「生きがいについて」も長島愛生園で彼らのお世話をした体験から生まれました。
ハンセン病の方々を見て、
「なぜ、あなた方が…?あなた方は、私に替わってくださったのだ…」という言葉、忘れません。mimi様のコメントから
 
小笠原医師役の演技、風貌はぴつたりでした。
私は申し訳ないのですが地元劇団を鑑賞するのは数回ほどです。
 
 
 
 松下先生は病身なのに九州電力豊前火力反対闘争などの行動派。」「草の根通信」もある。

 ハンセン氏病患者の「楡山のうたびと」

 下筌ダム反対闘争を貫いた「蜂の巣城」室原知幸氏の物語「砦に拠る」

 「風成の女たち」「怒りていう、逃亡にはあらず」「狼煙を見よ」

 「疾風の人」「五分の虫 一寸の魂」など差別や公害、権力への抵抗、人間愛にあふれた感動作ばかり。
 
 

 

 

 

 
 1958年(昭33年)12月13日、田中一村は姉・喜美子との蜜月的な生活を清算して、生涯でもっとも長く住んだ
千葉を離れ、奄美大島名瀬に渡航したのだった。この一村の思い切った行動の基点には能登・聖徳太子堂の天
井画の製作や、その後訪れた紀伊、四国、九州への旅で一村の視点に大きな変化があったのだろうと思われる。
 その一村が最初に荷を降ろしたのが、梅の屋という下宿屋であった。しかし懐の寂しい一村が金のかかる下宿屋
に長くいられるわけもなく、岡田藤助氏の知人の紹介状先が奄美和光園の小笠原登ということもあり、足繁く和光園
に通ううち一年程で、小笠原の宿舎に同居するにいたったのだった。しかも小笠原自身、前年(昭和32年)の9月11
日に和光園に就任してばかりなのである。
 
小笠原 登』  1888年(明21)7月10日生~1970年(昭45)12月12日死去 享年82歳

        
愛知県海部郡甚目寺・太子山円周寺の僧侶の家の三男として生まれた。江戸末期、円周寺は荒れるにまかせる寺だっ
たが、小笠原の祖父にあたる小笠原啓実が再興したという。この円周寺のある甚目寺は京と関東を結ぶ交通の要所で
あった。その甚目寺町には尾張四観音筆頭である甚目寺観音という名高い観音があり、しかも天智天皇が病気平癒の
勅願寺にしていたといわれ、治癒祈願のみならず、寺院内で施場、治療を施していたため、その繁栄の理由は交通の要
所というだけではなかった。
 その繁栄の様子が国宝・一遍上人絵伝の中に、この寺が題材にして描かれており、その絵伝の中には病人、老人、物
乞いなどが描かれており、その中で白装束に身を纏った人々はらい病(ハンセン病)患者と類推されるのである。当時、
放浪しさ迷う、ハンセン病患者にとって、こういった繁栄する門前町は恰好の拠り所となっていたのだろう。
 その甚目寺観音から東より100mほどのところに、小笠原登が生まれた、太子山円周寺があった。祖父・啓実は漢方医
であり、ハンセン病も治療したという。だからこの寺の境内には患者のむしろ小屋が数多く立てられただけでなく、世すべ
ない患者の共同小屋さえ設えてあったのだという。感染を怖がるものを叱咤し、啓実は治療を手伝いのものにぜったいう
つらないからと説得し、治療に専念したのだという。事実、ハンセン病がうつらないのは今は自明の理であるが、人間の形
状を著しく損なうこの病気の患者をみればそう思うのはいたしかたなかったろう。そんな祖父・啓実を見て育った小笠原が
その祖父の信念を踏襲し、ハンセン病患者の社会復帰の為に生涯を捧げたとしても不思議はないのであろう。