<span itemprop="headline">「ジョルジュ・サンドはなぜ男装したか」 2</span>
晩年のサンドはクリノリンのスカートで男装はしていない。
「ジョルジュ・サンドはなぜ男装したか」「を読了しました。
最後に「著者の池田孝江さんが「若き日に読み感動していた村上信彦著『服装の歴史』の中のサンドの男装に感心を持った」」とあり私もこの本で目が開く気がしたので同じであったのでうれしい。
私はも若いとき読んだ「村上さんの「明治女性史」や高群逸枝、伊藤康子、井上清、山崎朋子らの女性史の著作には大きな影響を受けた。」
村上さんは1943年、「服装の歴史」を出版することになったが戦時中で「こんなのに紙はやれない」といわれおジャンになったことがある。
関東大震災で帯に火が付いて焼け死んだ女性がいた。厚い女帯を幾重にも硬く巻いているので帯を簡単にほどいて逃げることも出来ない。暑い夏に汗流しながら帯を巻いていた母、冬、寒がっていたスカートの姉に村上さんはなぜ女だけが不自由を我慢しなければならないのか、男女で服装が違うのか疑問もったが誰もこの問題に触れようとしなかったと。
妻にズボンをはかせて写真撮り友人に結婚写真の変わりに送ったという先見者。将来女性はズボンをはくだろうと結論したので気狂い扱いされた村上さん。
本当にズボン姿の女性が多くなった!
さて日本でサンドと言うとすぐ「ショパンの恋人」で終わるが。サンドの文学はイギリスの文学者に大きな影響を与え、「嵐が丘」などのブロンテ姉妹のテーマと共通する。
フェミニストで政治にも大きな関心、行動していたサンドだが非常に女らしい優しさもあわせもった人だった。
泣くなった時はヴィクトル・ユゴーが弔辞を寄せ、ドフトエフスキーが日記に「サンドの死」を記した。
嫌われる結核患者のショパンや精神錯乱の発作起こす詩人ミュッセ(サンドに出会う前は女性蔑視していて、後にサンドが嫌う暴力もふるった)にも献身的に世話をしたサンド。離婚して苦労して二人の子供を育てたのに娘に背かれ哀しい思いをしたサンド。娘にしたら実父と離婚した母(離婚しても彼女の墓碑にはデュドヴァン男爵夫人となっているとは)は仕事に、観劇に、男性遍歴も華やかであまりに偉大な母!につむじまげたのでしょう。
この本はサンドが幼い二人の手を引いた絵、そのほかのカリカルチュアもとても母性強いサンドをあらわしているので購入したい。
針仕事にも愛着あり農民の慰安と教養のためノアンの屋敷に劇場を設け、人形劇を提供。自殺も企てたサンドが人形の製作、デザイン、仕立てもこなす。小説と戯曲は150編、書簡は15000通!
あの時代に男装し、一人で2児を育てながら愛と創作に生きたサンド、民衆の側に立って政治に発言、自然を愛し田舎に基盤置いて真摯に生きたサンド。彼女は私の中でも生き続ける。