riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟</span>


名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟
http://www.geocities.jp/teisintainagoya/index.html

 働きながら学校に行けると騙されて三菱軍事工場で働いた朝鮮の少女たちも高齢になった。私は裁判の傍聴も1回しか参加してなくて熱心な支援者でなく申し訳ないのだがこういう辛い思いをしている女性の存在を知ってほしい…以下はhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~nikkan/siryositu/iwatuki/iwatuki.htm「今、戦後補償を考える」より引用させてもらった



 「彼女たちが国民学校高学年になろうとする1941年には、日本は泥沼化した日中戦争からの活路を求めて、太平洋戦争に突入していった。日本国内生産が軍需に集中する中、青壮年の男たちが次々と兵士として召集されたため、国内の労働力は逼迫した。南方諸島が陥落する中、本土空襲の危険が間近に迫り、1944年には、空襲の危険がある都市部では縁故疎開学童疎開による避難が本格化していく。

 学童疎開が本格化しようとする1944年6月、日本は同年輩の朝鮮の少女であった彼女たちを、空襲が間近に迫る名古屋に連れて来て、軍用機生産工場で働かせた。彼女たちは国民学校6年生在学中か卒業間もない時期であった。

 彼女たちは、選ばれて連れてこられた少女たちだった。

 彼女たちは、尊敬する担任の先生や校長から「日本に行けば、女学校に行ける。働いてお金ももらえる」と、勧誘された。当時、朝鮮の少女たちが上級学校に進学する道は、ほとんど閉ざされていた。そうした朝鮮の少女たちにとって、「日本で女学校に通える」というのは、夢のような誘いかけだった。多くの少女たちが、日本行きを希望した。彼女たちは学業成績も良く、修身(道徳)も優秀で従順な少女たちであったことから、志願者から「選ばれて」日本に連れてこられた(彼女たちの中には、親に日本行きを反対され、辞退を申し出た者もいたが、教師たちから、反対する親は憲兵に逮捕されると言われ、志願を辞退することは許されなかった)

 成績優秀で性格もよいと思われた少女たちが選ばれたのは、日本の工場で働かせるためには、日本語が堪能で、指示に素直にしたがうことが求められていたからだ。

 こうして、彼女たちは、1944年6月、名古屋市南区道徳にある三菱重工の軍用機生産工場に連れてこられて、約300人の朝鮮の少女たちとともに、働かされた。少女たちは「朝鮮女子勤労挺身隊」と呼ばれた。

 幼い少女たちには、軍需工場の労働は過酷なものだった。労災や病気が続出した。食料も不足し、残飯をあさり、水を飲んで腹を満たす日々が続いた。外出は厳しく制限され、父母への手紙も検閲された。「半島人」と罵倒され、差別にさらされた。少女の中には、辛さを伝えたい一心で、「日本は必ず勝つ」と血文字で書いた手紙を両親に送り、心配した両親が名古屋にかけつけ、ようやく両親との面会を果たした者もあった。

 1944年12月には名古屋市南部を東南海地震が襲った。倒壊した工場の下敷きになって朝鮮の少女の内、6人が亡くなった。引き続く空襲の恐怖にも怯える毎日が続いた。

 日本の敗戦で彼女たちは1945年10月、朝鮮に帰された。約束されていた女学校への通学はおろか賃金が支払われることもなかった。」

傍聴したのはもう何年も前なのでおぼろげな記憶しかないのだが

原告の「裁判長様」と呼びかけていた叫びは胸に刻まれている。

空襲や地震で生き残っても、韓国に帰国すると従軍慰安婦と区別できない差別の試練が待っていた。

「裁判所は強制連行、強制労働、戦後の同一視被害、三菱重工の新会社・旧会社の同一性、国の不法行為責任等を明確に認めながら、日韓請求強制連行、強制労働、戦後の同一視被害、三菱重工の新会社・旧会社の同一性、国の不法行為責任等を明確に認めながら、日韓請求権協定の存在を理由に控訴を棄却した。」