riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">籾は死なず・貞享義民悲願</span>



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江戸時代、農民は米を作っても食べられず厳しい生活を送ってきました。
農民から米を取り上げて食べていた将軍や大名は皮肉にも脚気にかかり若死が多かったようです。

江戸時代初期の松本藩では隣の高遠藩や高島藩に比べ年貢が重くなり凶作でも考慮されず、不公平な藩政に不満が高まりついに多田加助らが立ち上がったのです。

今、派遣解雇の理不尽さでようやく声が上がってきましたね。
内定取り消しも、企業や政府は無責任ではないでしょうか。

瀬戸内寂聴さんも久米さんのテレビ番組で「今は学生が声を上げない」と嘆いてらしゃいました。
国、文部省の方針?で学生たちは骨抜きにされたのでは。
でも声を上げなくては変わりません。ギリシャでも学生たちが抗議しています。

本来、日本でも戦国時代の自由自治都市堺や、加賀の一向一揆(「百姓の持ちたる国」)で100年もの自治を勝ち取った伝統があるのに。

ところが信長、秀吉、家康、家光に残酷に弾圧され「長いものに巻かれろ」という根性が染みついてしまった。

独断と偏見で話が飛躍してますが幸運にも江戸時代に信州で起きた一揆のシナリオとパンフをお借りすることができました。舞台は未見です。

安曇野市出身の熊井啓監督が総指揮をとられた演劇です。

仲村さんのコメントです。

公演パンフを編集された加々美勉さんの署名記事から引用します。

(以下抜粋しての引用)
熊井啓監督が36年前の『キネマ旬報』で書いているそうです。
「・・・実は加助の娘が、熊井家に嫁いで来ていて、現在もその乗ってきた馬の鞍が、屋敷内の土蔵に保存されている。自分の家系を調べていくと、加助のような剛健な正義派の血筋ともつながる。本物の松本城をフルに生かし、多田加助の壮大なドラマを、いつの日か撮ってみたいと思う」

加助騒動映画化は、石原プロと全国農協中央会の全面協力が得られることになったが、減反で農業が危機に陥り、映画人口も最低となる時代で、不遇にも企画はボツに・・・・


熊井監督追悼はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/26653543.html

貞享3年(1686)、凶作の年まで年貢取り立てはさらに冷酷になり陽明学を学んだ中萱(なかがや)村(現安曇野市三郷明盛)庄屋加助らはついに立ち上がる。

 信大演劇部OBの「やまなみ会」などでつくる実行委員会の主催。
地方の先祖の闘いを顕彰する試みは非常に意義あることでしょう。
小田実も言ったように平和憲法やこういう勇気ある生き方はもっと誇るべきものでしょう。

作 柳裕 演出 本山正

劇中、若いお俊が「女子と小人養い難しとなす」の孔子の詞に疑問を抱いて陽明学者文左衛門に質問する。

答えは「女子総てをいやしめているのではない。この女子とは王の側室のこと、小人は心狭き臣下、君主が家来や側室をあしらうことの難しさを教えているのであって、そなたのような心すぐなる娘のことを悪しざまに行っているのではない」

お俊はまた、「お侍はなぜ王陽明様のようなこころを大切にする学問をなさらぬのでしょう」と。

こういう台詞を創作してくれてうれしいですね。

{}は信州ライブ音からの引用です。

 加助たちに続いて城下に集まった農民の勢いで藩がいったんは訴えを認めるが、すぐに取り消され、加助は仲間や子どもと一緒に処刑される。その直前、加助が家族に、「(地面にまかれた)籾は死なず、芽を出す」と話し、自分たちの死が農民の生活を助けることにつながる-と諭すシーンが見せ場だ。

 初日は約1500人が来場。同市島立の中村久志さん(76)は「『農民を救うためならば、息子たちも喜んで死ぬでしょう』と、加助を妻が励ました場面が切なかった」と話していた。


庄屋の立場も奪われた加助が「民百姓の苦しみを己の体の痛みとせよと。陽明さまはおっしゃる。それを信じてお上に逆らい訴訟もしたが今度しくじったら何も知らない若い衆子供まで獄門になるかもしれない。」と悩み抜き泣きだしたら妻が背中をなでて励ましたこの場面は読んだだけでも胸に迫る。

「お前様が正しいと思うことで死んでいくなら喜んで一緒に死ぬだろうよ。」


貞享義民記念館HP
http://www.anc-tv.ne.jp/~gimin/


一揆の義民といえば佐倉惣五郎(宗吾)
歌舞伎にもなり先日も知る楽で取り上げられています。

時の政権に逆らったものを島流しや磔にしてもそののちに祟りを恐れその人物を祀ることがあります。菅原道真崇徳天皇佐倉惣五郎はその例です。

初期の百姓一揆は代表越訴型。
目覚めた庄屋等が窮民を見かねて幕府に訴え出た。その結果、聞き入れられたとしても本人だけでなく家族も処刑されました。幼い娘たちまで男名にして処刑!

権力は卑劣で嘘を言います。
佐倉惣五郎は伝説的ですがその当時の各地の一揆の多くの犠牲者のシンボルでしょう。



この「貞享義民悲願・籾は死なず」も同様です。

緒形拳さんの息子さん直人さんが主演した「郡上一揆」の衣装も参考にされたそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/26000946.html

「郡上一揆」では首謀者を分かりにくくするためと団結のためにから傘連判状が作られました。2枚目の写真です。