riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">平和公園の献体の塔</span>


http://www.blogmura.com/

先日、今年も母が入会している不老会の年に一度の行事、献体された方を顕彰する日がありこの献体の扉が開いてお参りしてきました。

この青い扉(銅版の色かな)には子供たちがシャボン玉で遊んでいるレリーフがあります。シャボン玉とんだの作詞野口雨情のわずか7日の命だった娘の話と関係あるのでしょうか。今、お藤さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/rururu_115
にあったことを思い出しました。

シャボン玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた

シャボン玉消えた とばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風々吹くな シャボン玉飛ばそ


母が未熟児だった私の二男が医学のお世話になったと先に献体申し込みましたがあとから入った父が先に亡くなりここに祀られています。

献体すると知った親戚は驚いて止めようとしました。

知多半島は今でこそ、農業、酪農が盛んで私もお世話になっていますが愛知用水が出来るまでは水不足で苦しんだ土地柄。

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E8%80%81%E4%BC%9Aによると。
知多半島の台地の農業開発を促進する為、久野と当時安城農林高校教諭だった浜島辰雄によって発案された愛知用水。用水の完成によって知多半島の住民生活は著しく向上し、産業も発展したが、反面完成までに56名の犠牲者が出た。中でもバイパストンネル工事は難工事で5人の犠牲者が出た。

久野は、「私が殺したようなものだ。私がこんな仕事を始めなければ、この人達は死ななかった。」と嘆き悲しみ現場にひれ伏した。

久野は犠牲者の戒名をもらって、家でも朝夕供養に努めたが気が治まらなかった。

久野は工事現場の土を集め常滑の柴山清風に水利観音500体を造ってもらい、恩人に配布して供養を依頼したが、工事の犠牲者やその遺族の心情を想うと悔やまれてならず、苦悩の毎日であった。

知多市の梅の名所・佐布里池(愛知用水の調整池)のほとりの治水神社に犠牲者が祭られている。

そんな苦しい胸中を当時の名古屋大学総長勝沼精蔵に告白したところ、
「医師の養成のためには解剖を教えなければならない。しかし現在、大学医学部では解剖用遺体が絶対的に不足している。あなたもいっそのこと献体運動に身をささげては」と助言された。実情をしり、久野は即座に献体の意思を示した。

直ちに自らの身体を献体登録(夫人も即刻同意)することによって安心立命を得ることができた。その後の生涯を、献体活動にかける決意で家族や用水建設の同志に働きかけ、その輪を広げた。これが不老会の始まりである。


以前、この平和公園から遠くない場所に住んでいてこの公園は散歩コースでした。中でも平和堂とこの献体の党は目立ちます。

平和堂や日本一の公園、平和公園、幻のオリンピック開催地のことは以下のサイトに詳しいです。ここは戦争や伊勢湾台風の被害者の慰霊碑もあります。

日本一の公園http://toppy.net/nagoya/chikusa3.html

平和堂は1964(S39)年、戦災復興事業の一環として建てられたものです。中には千手観音が安置されています。1941(S16)年、南京日中友好として名古屋市は南京市に十一面観世音立像を寄贈しました。そのお礼として南京市から名古屋市に贈られたのがこの千手観音です。その千手観音は約3.5mの大きさで、年に一度開帳されます。名古屋市と南京市は1978(S53)年に姉妹友好都市提携を結んでいて、現在もその縁は続いています。この平和堂からは名東区を一望することができます。

平和堂内部を拝観したこともなく残念です。
こちらに千手観音の写真と解説があります、
http://wwwb.dcns.ne.jp/~forestc7/honkan/Heiwakoen/heiwakoen.htm
戦災復興事業の一環として 中区を中心とした二百七十九寺の墓を、猫ヶ洞池の東に移転し墓地公園となりました。

その他、コアラの為のユーカリが植えられていたり尾張の殿様のお墓もあります。
丘の上の無料の展望タワー、アクアタワーにもまだ入ったことがありません。

桜も紅葉も綺麗です。オリンピックが実現しないで緑も守られました。