riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">母との別れ献体顕彰式</span>

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昨日の15日は第40回献体者顕彰式並びに第30回御名札ごみょうさつ納め式でした。
 3月に急死した母も念願したこの塔の中に御名札を納めて頂きました。
母と何回もお参りした献体の塔、昨年夏と今回は一人で来ました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 上の画像は昨年8月の撮影なので扉は閉じられていました。
お盆のお花がお供えされていました。
青い扉(銅版の色かな)には子供たちがシャボン玉で遊んでいるレリーフがあります。シャボン玉とんだの作詞野口雨情のわずか7日の命だった娘の話と関係あるのでしょうか。

シャボン玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた

シャボン玉消えた とばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風々吹くな シャボン玉飛ばそ
 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ↑左は献体の塔内部の高い天井、この日のみ扉が開かれ入ります。
右が納められる名札です。
 
 未熟児だった私の二男が医学のお世話になったと母が献体申し込こんでくれましたがあとから母に勧められて入った父が先に亡くなりここに祀られています。
今回母もこの献体の塔に銅版の名札が納められ感無量です。
 
 
不老会ではすでに9千人が献体され今年は270人程の方が成就されました。
 
顕彰の言葉は愛知県知事大村直哉
 
 
 
やはり献体五大学(名古屋大学名古屋市立大学・藤田保健衛生大学愛知学院大学・愛知医科大学)学生代表と遺族代表のお礼のことばが胸に迫りました。
 
学生代表は名古屋市大病院医学部学生 小林史怜様
 
人間の体の精巧さ、美しさ…
 
 
 
小林 一浪をして名古屋市立大学医学部に入った小林史怜です。僕は子どもの頃、身体が弱くて、何かと医療の恩恵を受けてきました。これからはその恩返しをしようと思ったのです。家系に医療従事者が多いのでそういう考えになったのかもしれませんが
 
 
 

献体すると知った親戚は驚いて止めようとしました。

知多半島は今でこそ、農業、酪農が盛んで私もお世話になっていますが愛知用水が出来るまでは水不足で苦しんだ土地柄。

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E8%80%81%E4%BC%9Aによると。
知多半島の台地の農業開発を促進する為、久野と当時安城農林高校教諭だった浜島辰雄によって発案された愛知用水。用水の完成によって知多半島の住民生活は著しく向上し、産業も発展したが、反面完成までに56名の犠牲者が出た。中でもバイパストンネル工事は難工事で5人の犠牲者が出た。

久野は、「私が殺したようなものだ。私がこんな仕事を始めなければ、この人達は死ななかった。」と嘆き悲しみ現場にひれ伏した。

久野は犠牲者の戒名をもらって、家でも朝夕供養に努めたが気が治まらなかった。

久野は工事現場の土を集め常滑の柴山清風に水利観音500体を造ってもらい、恩人に配布して供養を依頼したが、工事の犠牲者やその遺族の心情を想うと悔やまれてならず、苦悩の毎日であった。

知多市の梅の名所・佐布里池(愛知用水の調整池)のほとりの治水神社に犠牲者が祭られている。

そんな苦しい胸中を当時の名古屋大学総長勝沼精蔵に告白したところ、
「医師の養成のためには解剖を教えなければならない。しかし現在、大学医学部では解剖用遺体が絶対的に不足している。あなたもいっそのこと献体運動に身をささげては」と助言された。実情をしり、久野は即座に献体の意思を示した。

直ちに自らの身体を献体登録(夫人も即刻同意)することによって安心立命を得ることができた。その後の生涯を、献体活動にかける決意で家族や用水建設の同志に働きかけ、その輪を広げた。これが不老会の始まりである。


以前、この平和公園から遠くない場所に住んでいてこの公園は散歩コースでした。中でも平和堂とこの献体の党は目立ちます。

平和堂や日本一の公園、平和公園、幻のオリンピック開催地のことは以下のサイトに詳しいです。ここは戦争や伊勢湾台風の被害者の慰霊碑もあります。

日本一の公園http://toppy.net/nagoya/chikusa3.html

平和堂は1964(S39)年、戦災復興事業の一環として建てられたものです。中には千手観音が安置されています。1941(S16)年、南京日中友好として名古屋市は南京市に十一面観世音立像を寄贈しました。そのお礼として南京市から名古屋市に贈られたのがこの千手観音です。その千手観音は約3.5mの大きさで、年に一度開帳されます。名古屋市と南京市は1978(S53)年に姉妹友好都市提携を結んでいて、現在もその縁は続いています。この平和堂からは名東区を一望することができます。

平和堂内部を拝観したこともなく残念です。
こちらに千手観音の写真と解説があります、
http://wwwb.dcns.ne.jp/~forestc7/honkan/Heiwakoen/heiwakoen.htm
戦災復興事業の一環として 中区を中心とした二百七十九寺の墓を、猫ヶ洞池の東に移転し墓地公園となりました。

その他、コアラの為のユーカリが植えられていたり尾張の殿様のお墓もあります。
丘の上の無料の展望タワー、アクアタワーにもまだ入ったことがありません。

桜も紅葉も綺麗です。オリンピックが実現しないで緑も守られました。
 
名古屋の平和公園桜の名所ですがコアラの餌のユーカリ栽培の施設もあります。
 
名古屋市の戦災復興計画に於ける区画整理は、道路建設では100メートル道路が有名、区画整理のもう一つの重点が平和公園建設構想だった。
平和公園建設構想は市内の各寺院境内地に備わっていた墓地を全て東部丘陵地へ移転することによって、道路用地や公園用地を代替地との交換で円満に確保する事を目的とした。実際は1946年(昭和21年)6月設置された墓地整理委員会の指導により、中区東区熱田区を中心とする市内278寺院の墓地約18ha・18.7万余基の墓を千種区鹿子殿地内へ移転させるもので、1947年(昭和22年)から1957年(昭和32年)にかけて実施された。
市内には尾張藩菩提寺であった東区の建中寺の歴代藩主の墓や、赤穂浪士片岡源五右衞門の墓(中区・乾徳寺)など由緒ある墓所が沢山あったが、それらもほとんど全てを移転させる徹底したものだった
 
これは医学の進歩発展のためにと
自らの遺体を提供した人の功績を称えるために
1985(S60)年に建てられたものです。

「不老会」という無報酬で献体を申し出て登録する会があります。
この会が発起して建てられたものがこの「献体の塔」です。

もともとこの不老会は、昭和36年(1961年)に久野庄太郎(初代理事長、平成9年96才で成願)
の発意により始まったそうです。
久野理事長は「愛知用水の発願者」としても知られているのですが、
この愛知用水工事の際、完成までに56名の犠牲者が出てしまったんです。
そのことを苦しんだ彼は、自分の身を献体して少しでも
誰かが救われるようにと思い立ち、この会を発足させたのです。
現在は会員が二万名を突破するという大きな会に発展しました。
 
平和堂 昭和12年(1937)7月7日の廬溝橋事件に端を発して日中戦争が始まるが、日本軍の南京占領後には泥沼化し、日中全面戦争となっていった。中国人による反日抗争が高まる中、南京最大の寺であった毘盧寺の本尊・千手観音像と、名古屋東山の瑞雲寺に安置されていた高さ10mという木彫りの十一面観音像が交換され、あたかも仏教を通して日中の融和を実現させるかのような日本軍部による宣撫工作が秘かに行われた。当時、南京には、日本の傀儡と言われた汪兆銘政権(南京政権)があり、この観音像はその汪兆銘政権から、日華親善の名目で、日本の全仏教徒に対して贈られたものであった。
 戦後、名古屋の千手観音像は平和堂に安置されるようになったが、南京の毘盧寺の十一面観音は、文化大革命で破壊されてしまった。現在、「二つの観音様を考える会」を中心にして、この千手観音像を南京毘盧寺に返却しようという市民運動が起こっている。