<span itemprop="headline">藤田嗣治異邦人の生涯</span>
エスニックな歌「異邦人」も好きですが子供の時に買ってもらった画集の藤田の絵は忘れられないものです。
当時600円の画集12冊も買ってくれました。
当時600円の画集12冊も買ってくれました。
世界少年少女文学全集50冊
http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/25519621.html
とともに親には負担だったでしょう。
今は古本屋で二束三文で売られていますが生涯手放せません。
http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/25519621.html
とともに親には負担だったでしょう。
今は古本屋で二束三文で売られていますが生涯手放せません。
文学全集は広く物語の面白さと一流画家の挿絵が私をはぐくんでくれました。丸木俊 の挿絵が懐かしい。
子供の時は藤田が貶められていたことも知らず美しい肌の色に魅かれていただけです。
もうすぐ、藤田展が始まるので楽しみにしています。
もうすぐ、藤田展が始まるので楽しみにしています。
翻訳家朝吹さんの本にも藤田は登場していた。
藤田家は名門で先祖代々伝えられた鎧かぶとがたくさんあり、嗣治は床の間にその鎧を飾る役割だった。
父は嗣治のよき理解者で森鴎外の次の軍医総監を務めた。
母方の従兄弟には小山内薫がいた。
熊本に父の転勤で移り住んだとき、母をわずか五歳でなくす。
藤田の五回もの結婚はこの体験からかもしれない。
初恋の相手の為に紅梅の枝を折ろうとして登った木の枝で足を血だらけにした。
藤田のドキュメント番組で、藤田一人に戦争画の責任を取れと迫った画家がいたことを知り憤りました。藤田はそれを受け入れて日本を去りました。本はさすがに感動的です。
この本の口絵、「アッツ島玉砕」を観れば、戦意高揚なんかでなく、戦争の悲惨さが一目でわかります。中央の花が写真ではわからないので確かめたいです。
メキシコでフリーダ・カーロの夫、ディエゴの壁画に影響され巨大な壁画を描いた藤田。最後の礼拝堂のフレスコ画の湿気が藤田の体をむしばんだという。
自分はお酒飲まないのに新人の画家や元妻たちに御馳走や酒を戦時中もふるまったフジタ、それだけでも十分やさしい人とわかるではないか。
その家で雛人形の為のひな壇や桜餅作ったり。
人形好きだったのも実のお子さんにめぐまれなかったからでしょう。
日本近代美術史最大のタブーに挑む傑作評伝!
華麗な伝説に彩られたエコール・ド・パリの寵児は、帰国後なぜ「戦争画のスター」となったのか? 戦後フランスに帰化し、二度と日本に帰らなかったのはなぜか? 独創的芸術の変遷、苛酷な運命、そして魂の彷徨。未公開資料を駆使して「巨匠の真実」に迫る!
みちまろさん
「藤田嗣治「異邦人」の生涯」のなかで印象に残ったエピソードが紹介されていました。1940年の出来事でした。藤田嗣治のアトリエに陸軍中将と名のる一人の初老の男性が訪れたそうです。男性は、ノモンハン事件の絵を描いてほしいと頼んだそうです。ノモンハン事件は、歴史の教科書では「事件」ということになっていますが、現象としては、一般的な「事件」という言葉の枠組みを越えて、戦闘と呼ぶにふさわしい日ソの武力衝突でした。満州に駐屯する関東軍とシベリアに駐屯するソ連軍が戦いました。装備に乏しい関東軍は高度に機械化されたソ連軍にこてんぱんにやられました。戦場には数万の日本兵の死体が積み重なったようです。
「国民に知られるのは避けなければならないのですが、これは個人的な依頼です。戦死した部下の霊を慰めるためぜひとも絵を描いてほしいのです」
戦争中は、戦意高揚のために戦争画の巡回展が日本全国で開催されたそうです。藤田嗣治は、青森で行われた巡回展の会場に一人で訪れる機会があったようです。老人たちが「アッツ島玉砕」の前にひざをついて祈り拝んでいる姿を見かけました。藤田嗣治は、「生まれて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え」た風景を見たと言っていたようです。
「人間は一人ではどんな天才でも貧しくなるばかりだ。本当の孤独は人間を駄目にする」と言った。