riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">マッキントッシュとオパールアクセサリー</span>





チャールズ・レニー・マッキントッシュを初めて知ったのはアンティークの本です。その後、モリスとの関連を知りました。

イングリシュローズには彼の名前がついたピンクのバラ があります。

たあちゃんが言って下さったので、東京都庭園美術館で売っていたデミカップを紹介します。

銀線が光って上手く映りません。




彼のハイバックチェアやヒルハウ はその後のモダニズムのモデルになり有名なので御存じでしょう。

薔薇のカーテンや照明器具は一度見たら忘れません。




こんな部屋に住みたい。

マッキントッシュグラスゴー生まれ、明治新政府岩倉使節団の一行もグラスゴーを訪れ、造船所や機械工場などを見学。殖産興業を目指していた日本はグラスゴーからも技術者を招いていた。




木村博昭「マッキントッシュの世界」 の写真です。

「建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。」 とは信じられないぐらいです。

それでも1910年、グラスゴー美術大学建築学科長に就任しています。1914年大学を辞しています。

マッキントッシュとは関係ないのですがアンティ-クお好きなgraceさんからのリクエストでオパールのリングとネックレスの写真です。

現行品ですが、これは私のものではありません(>へ<)

オパールは不思議な宝石で光を当てていると赤くなる部分があります。写真では見ずらいのですが特に真ん中のリングはもっと赤くなります。複雑な色が楽しめる石です。





ウィキペディアWikipedia)』によると
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 - 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。


チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランドグラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。

16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っている。チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー(The Four)と呼ばれ、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至った。いわゆる、「グラスゴー・スタイル」と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われる。

1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所(1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなる。)に移り、製図係として働く。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かける。

27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などをした。

当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。

1928年、喉の癌のためにロンドンで死去。