riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">世界記憶遺産、炭鉱画家山本作兵衛</span>




今頃ですが、教科書にも載っていた、一度見たら忘れられないなんとも力のある絵を描いた山本作兵衛

(やまもと さくべい 1892年5月17日 - 1984年12月19日)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。

日本で初めてユネスコから世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた炭鉱画で知られる。

日曜美術館芸術新潮一月号でも取り上げられました。

昔夢中で読んだ「追われゆく坑夫たち」 を書いた上野英信
とも交流がありました。




やはりよいお顔でしたね。

炭鉱の仕事は過酷で悲惨な事故も度々聞いた挙句今は廃坑。

その地の底の女性の姿。

山本作兵衛は、7歳から坑内に入り、50年以上働いた生粋の炭鉱労働者である。ヤマの記録を後世に残そうと、66歳になって絵筆を取った。最初、絵の中の女性に半袖の作業着をまとわせた。
 「すらごつ(空事)ばっか描いてから。あげんか熱か切り羽で、上着ば着て仕事のでくるもんね」
 かつて炭鉱で働いたある女性の指摘が、山本に絵の女性の服を脱がせた。見る者が受ける“衝撃”は格段に増した。以後、山本はありのままのヤマの情景を描いた。
自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(1967年)。「ヤマの絵師」として知られた。1984年(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没。



熊五郎さんのブログ
一つは、なんといっても、炭鉱の子で学校に行くこと自体が珍しいといわれた時代に、彼は小学校を卒業しています。それも、生まれた弟の子守や、坑内作業につくなどで、しばしば中断を余儀なくされながら、余計な年数をかけてようやく卒業しています。そのときには、高等科にあげてくれと泣いて親を困らせたと後悔の言葉を記していますから、学校が好きだったことは間違いなさそうです。学校では、習字の時間がいちばん好きで、字は書かずに絵ばかり描いていたと述懐しています。

青年時代には、漢和辞典をノートに書写して勉強したという刻苦勉励の人でもありました。絵に添えられた文章の文字は実に見事なうまい文字だと思います。

もう一つ、彼の正義感があると思います。『赤旗』読書欄のコラムも一部引用していましたが、「耳が悪いために長生きしたようなものです。耳さえ悪ろうなかったら、きっと無産運動(労働運動・社会主義運動のこと)にとびこんでおったでしょう。そうして、とうの昔に殺されてしもうておったことでしょう。どれほど無産運動に入りたかったかしれません。耳がようきこえないばっかりに、消極的になっておりました」と記しています。

漢和辞典から難しい漢字を丁寧に力強く書き写しているページが芸術新潮にあります。大変な努力型の方です。

このような事実に基づいた絵、(そこにはユーモアも何か人間の色香のようなものも伺えます)が世界遺産になったことは喜ばしいことだと思います。

[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2007/01/post_53.shtml
山本作兵衛王国と闇]
ふんどし一つ身にまとい、低く狭い坑道を腹ばいになって掘り進む入れ墨の男。後ろでは上半身裸で乳房をあらわにした女が、掘り出された石炭をかき集める。「先山」の夫と「後山」の妻の絵である。明治期の炭坑は、こうした過酷な労働に支えられていた。添えられた説明文には「炭丈(スミタケ)45センチ位までは坐(すわ)って掘るが、それ以下は寝て掘る」とある。彩色された絵は細部までが克明で、妥協を許さない乾坤一擲(けんこんいってき)の筆致である。

炭鉱の母子の絵、まるでマリア様のような絵もあったのですが。

リンチ場面等の絵は奥さんに止められ破棄してしまったそう、残念ですね。
 

「作兵衛じいちゃんが人々に与える感動は、私の目標です」。昨年11月、東京で山本の作品を基にしたドキュメンタリー映画「炭鉱に生きる」(萩原吉弘監督)の上映会があった。鑑賞した山本のひ孫の緒方ももさん(19)=東京芸術大1年=は、目を輝かせた。「私のような炭鉱を知らない若い世代のために作兵衛じいちゃんの絵はあるんです。人間の力って素晴らしい」
 自分の音楽でだれかに感動を伝えたいと願う緒方さんは、山本が毎日筆を握ったように、今日もバイオリンの練習に励む。

 「ヤマは消えゆく、筑豊524のボタ山は残る。やがて私も余白(原文のまま)は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思い立った」

山本の孫の緒方恵美さん(45)=同県飯塚市=はこう打ち明ける。
 「実は、じいちゃんは伝えたいヤマの真実を最初は原稿用紙に書いていたのです。真っ正直なじいちゃんは、自分が見聞きした炭坑のすべてを書いた。ところが、その内容があまりに赤裸々で、こんな文章を発表したら筑豊の地で暮らせなくなると、家の者が猛反対した。このため、じいちゃんは、原稿用紙を焼き捨てて、絵に思いを託したのです」


「私の絵には一つだけうそがあります。坑内は真っ暗でこんなにはっきり(色は)見えやしません」