riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">板東玉三郎悠久の美</span>

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明日、京都の友人と待望の玉三郎の「アマテラス」観劇するのですが台風が~
 

この対談も素晴らしいので、コピーさせてもらいました。大学での講演もうかがうことが出来なかったので。
 
稀代の女方の魅力にせまる板東玉三郎悠久の美
ミッシェル・ココゾフスキー対談
 
ミッシェル・ココゾフスキー氏はパリ第8大学演劇学部の教授、ナンシーの国際演劇フェスティバルの責任者
 
踊りを通して魂を解き放つ
プリセツカヤは下半身が動かなくても腕だけで瀕死の白鳥を踊ったが、
 
基本的には重力から解放されると言うこと、物理的ではなく魂が地球から解き放たれるような概念的な大きな意味で。
人間という存在に縛られないこと、あるいは縛られていないことを観念をお客様に訴えかければいいのではないでしょうか。それをお客様が楽しんだりどうやって踊っているのだろうと思い巡らせていただきさえすればいいのです。
 
お客様はこの世から解放されたものを観ながらそれぞれが好きな世界に飛んで行ける。その手立てになればいい。
 
ただ練習するだけ。ひたすら踊るだけ。理想は持っているが自分がやっていることがどう映るかということはわからない。しかし世界的に活躍しているアーティストは想像力とか、夢とか、幻想とか、伝送的なものにちかずきたいというエネルギーを凄く持っていた人なんだと思います。年おいてだめになったと言う人はどうやって踊るかということに執着してしまっているから。
 
世阿弥は年取って舞えなくなると「複式夢幻能」という複雑な様式を編み出しました。「井筒」はその一例で、自分が恋人の形をして井戸の中を見て、その井戸に映った自分の影を観ながら恋人を思うと言う複雑なもの。世阿弥のこよなく手の届かない者に近ズ来たいと思い~出来た作品。
 
ココ「風姿花伝」は芸術としてあるべき姿を哲学的に説明、あらゆる芸術の分野の人が共鳴する普遍的な内容
 
玉三郎  未だにそれを超える理論がないぐらい
 
演じると言うのは他人になりえると言う意味ではない。観客は演じている人の向こうに広がる世界を観ると言うことが大事
 
語ること、言葉をちゃんと伝えることが大事
 
人間は絵や音楽や演劇に触れると一人で歯ないことを実感する。
 
佐渡で自然に囲まれて過ごす時間は素晴らしい
 
どう死ぬかはどう生きるかということ。
佐渡に行くようになったのは歌舞伎だけやっていていいのかと思ったのと同じ頃で都会のコンクリートに囲まれた環境にいて人間として人の前で演じていていいのかという疑問が生まれたから、だから自然の中に身を投じてみようと思った
おきる時間が違う、
着るものもこだわりがなくなる。
 
最終目的は「無事に死ぬ事」明日の事が想像できるように、それがわかるために努力すること、だから答えなんかない。来年の事を具体的に予想したってちっとも面白くないでしょう。
 
玉三郎でも王女メディアはしっくり来なかった役、よかった~
母性を感じる玉三郎には子供を殺す役はにあいませんよね。
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ボケていますが右は2006年初演アマテラス南座
私も歌舞伎だけの玉三郎より昆劇や西洋女形、アマテラスなども演じてくれるのが嬉しいです。中には歌舞伎座で歌舞伎演じないと責任はたしてないなどと言われる方もありますが。