<span itemprop="headline">戦争直視せず悲劇を大きくした政府</span>
中日(東京)新聞が毎日良い記事出すのにこちらは体調不良でなかなかUP出来ませんでした。↑は8月5日の朝刊一面
かつてない夏バテ?
mimi様のブログから
模型飛機様のブログ
8月5日の新聞ですが
政府が敗戦直後に設置した「戦争調査会」に着目
開戦から敗戦までの全過程を調査する組織だったが、戦争の原因を考え
上は12,13面 問い直す戦争
日本は明治初年から戦争ばかりしていました。
庶民のほとんどは農民だった時代、
江戸時代には数多くの百姓一揆がおこりました。300件だったか。
この地方では郡上一揆が有名ですが被害者出しました。
徹夜踊りで有名な郡上八幡 2年だけ住むことが出来た懐かしい街です。
♪郡上のなあ、八幡でてゆく時は雨も降らずに袖絞る~♪
その意味は一揆の犠牲でした。
最近犠牲者出さなかった一揆の話読んだのですがどこだったか、ボケてます。
明治初年も地租改正反対一揆がおこりました。
戦争ばかりしてるから農村は疲弊し娘の身売りも珍しくない悲惨さ
第1章 「七十年戦争」といま―明治以降の戦争をふりかえって
第2章 維新六年後に最初の出兵―台湾出兵と江華島事件朝鮮へ出兵
(一八七四年~)
第3章 朝鮮をめぐる対立の激化―日清戦争(一八九四年~)
第4章 外国人民のたたかいに対する干渉戦争
―東学農民革命・義兵闘争・義和団の鎮圧
第5章 満州・朝鮮の支配を争った帝国主義戦争―日露戦争(一九〇四年~)
第6章 中国での権益拡大めざし参戦―第一次世界大戦(一九一四年~)
第7章 「戦争は違法」の流れに逆らって―満州事変と中国への全面戦争(一九三一年~)
第8章 宣戦布告なき奇襲攻撃による開戦―アジア・太平洋戦争と戦後の原点(一九四一年~)
第9章 戦争の教訓を生かすのか、それとも逆行か―日本の現在を問う
第2章 維新六年後に最初の出兵―台湾出兵と江華島事件朝鮮へ出兵
(一八七四年~)
第3章 朝鮮をめぐる対立の激化―日清戦争(一八九四年~)
第4章 外国人民のたたかいに対する干渉戦争
―東学農民革命・義兵闘争・義和団の鎮圧
第5章 満州・朝鮮の支配を争った帝国主義戦争―日露戦争(一九〇四年~)
第6章 中国での権益拡大めざし参戦―第一次世界大戦(一九一四年~)
第7章 「戦争は違法」の流れに逆らって―満州事変と中国への全面戦争(一九三一年~)
第8章 宣戦布告なき奇襲攻撃による開戦―アジア・太平洋戦争と戦後の原点(一九四一年~)
第9章 戦争の教訓を生かすのか、それとも逆行か―日本の現在を問う
最初の台湾出兵は国内の不満をそらす意味もありましたが
日本が米英にやられたことを同じアジア人にやったとしか思えません。
やっと
日本人の多くが戦争被害者としての話が多く、なかなか加害者としての辛い告白をなさるかたは希少です。
なぜかアメリカがもう負けると分かってる日本に二発も原爆投下したのにアメリカを批判する声が少ないような気がします。
中国はアメリカにとっても日本にとっても大事なお金を落としてくれるお客さんです。
敵に回したら両国にとって国益損ないます。
アメリカは日本よりしたたかでしょう。
石原が個人所有の尖閣諸島を国有化にと口出さなければあれほど中国を刺激することもなかったのに。
日本は明治からの外交下手で国民も他国民も悲劇のどん底に落としました。
もう日本中空襲され負けると分かってるのに国体護持、天皇制大事で降参せず
満州残留孤児・女性の悲劇、沖縄、原爆投下のあらゆる悲劇を呼び込みました。
天皇もう一度アメリカを叩いてからと。
天皇のためにどれほどの方が亡くなったでしょう。
戦後も原爆投下は仕方がなかった、戦争責任という言葉の綾はわからないなどびっくり発言
まず、最も有名で、かつ、最も驚くべき発言は、1975年10月31日、日本記者クラブ代表との会見で飛び出した、自らの戦争責任に関する「言葉のアヤ」発言であろう。初のアメリカ訪問から帰国後しばらくして行われたこの記者会見は、予め記者クラブ側が質問事項を提出していたのだが、関連質問として、予め提出されていなかった質問が2つ出された。そのひとつが、「陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」という質問で、これに対して昭和天皇は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と答えたのである。
このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている(詳細は後述)。
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
工事は朝鮮人労働者が担当
憲法の公布に先立って、同年4月10日に戦後初の総選挙で勝利した当時の自由党総裁・鳩山一郎は、組閣の直前にGHQから公職追放されている。このとき 水面下で活動していたのがGHQ参謀第2部(G2)であり、G2は吉田茂を指示する立場にあった。そして、吉田茂は外相も兼務しつつ総理大臣にのし上がっ たのである。
天皇は政治に関与してはならないことを確認した。しかし、アメリカの公文書館から天皇の当時の政治活動に関する驚くべき資料が発見されている。
当時、天皇の側近であった元外交官・寺崎英成が、GHQに宛てた昭和天皇からの極秘メッセージである。そこにはGHQの沖縄統治に関する天皇自身の考え がありありと記されている。ちなみに、以下に引用する覚書を記したのは、マッカーサー司令部政治顧問のシーボルトである。
当時、天皇の側近であった元外交官・寺崎英成が、GHQに宛てた昭和天皇からの極秘メッセージである。そこにはGHQの沖縄統治に関する天皇自身の考え がありありと記されている。ちなみに、以下に引用する覚書を記したのは、マッカーサー司令部政治顧問のシーボルトである。
マッカーサー元帥のための覚書」(1947年9月20日)
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来の考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来の考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。
実は昭和天皇とマッカーサーは11回にわたり直接会談をしていたことが現在分かっている。特に終盤の第9回会談と第10回会談で露出してくるのは、天皇の自己保身、天皇制・天皇家への飽くなき執着である。
「ソ連による共産主義思想の浸透と、朝鮮に対する侵略がある」(第9回会談)
「米国は極東に対する重点の置き方が欧州に比べて軽いのではないか」(第10回会談)
「日本共産党は巧みにソ連のプロパガンダを流し、日本国民の不満をかきたてている」(第10回会談)
「ソ連による共産主義思想の浸透と、朝鮮に対する侵略がある」(第9回会談)
「米国は極東に対する重点の置き方が欧州に比べて軽いのではないか」(第10回会談)
「日本共産党は巧みにソ連のプロパガンダを流し、日本国民の不満をかきたてている」(第10回会談)
そもそもマッカーサーは少なくとも初期の段階において、日本の再武装については極めて否定的な立場をとっていた。言うなれば日本を完全非武装化し、「極東のスイス」たらしめようと考えていた。そのような中で、昭和天皇はマッカーサーに対し”渇”をいれた格好になる。
前提条件として、ソ連を象徴とする共産主義は天皇制・天皇家にとって最大の脅威として映っている。そのような中で、日本の防衛と天皇制への防衛はまった く同じ意味を成すようになる。したがって、天皇が生き残るためには米軍による日本防衛は必須条件となった。そのための「犠牲」として差し出されたのが、言 うまでもなく「沖縄」だったのだ。
当時の日本国民にとって天皇は絶対的な存在だったし、それを米国も十分に認識していたからこそ、天皇が差し出した沖縄案にまんまと乗ることもできたのだ。
つまり、米軍沖縄基地問題とは、昭和天皇による天皇家保身のための「棄民政策」だったのだ。
つまり、米軍沖縄基地問題とは、昭和天皇による天皇家保身のための「棄民政策」だったのだ。
2015年7月30日