riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

水原紫苑、ゆきゆきて神軍、永山則夫

ゆきゆきて神軍

 

1982年、兵庫県神戸市。妻・シズミと二人でバッテリー商を営む奥崎謙三は、ニューギニア戦の生き残りであり、69年に、死んだ戦友の怨念をこめて“ヤマザキ、天皇を撃て!”と叫んで天皇にパチンコ玉4個を発射した男である。奥崎はニューギニアの地に自分の手で埋葬した故・島本一等兵の母を訪ね、彼女をニューギニアの旅に連れていくことを約束した。奥崎の所属部隊・独立工兵第36連隊で、終戦後23日もたってから“敵前逃亡”の罪で二人の兵士が射殺された事件があったことを知った奥崎は行動を開始した。その二人の兵士、吉沢徹之助の妹・崎本倫子、野村甚平の弟・寿也とともに、処刑した五人の上官を訪ね、当時の状況を聞き出す。だが、それぞれ、処刑に立ちあったことは白状したものの、ある者は空砲だったと言い、ある者は二人をはずして引き金を引いたと言う。いったい誰が彼らを“撃った”のかは不明のままだった。さらに彼らは飢餓状況の中で人肉を食したことをも証言するのだった。やがて、二人の遺族は奥崎の、時には暴力も辞さない態度からか、同行を辞退した。奥崎はやむを得ず、妻と知人に遺族の役を演じてもらい、処刑の責任者である古清水元中隊長と対決すべく家を訪ね真相を質す--。一方、奥崎は独工兵第36部隊の生き残り、山田吉太郎元軍曹に悲惨な体験をありのままに証言するように迫る。そして--1983年12月15日、奥崎は古清水宅を訪ね、たまたま居合わせた息子に銃を発射、2日後に逮捕された。3年後の86年9月18日に妻・シズミが死亡。87年1月28日、奥崎は殺人未遂などで徴役12年の実刑判決を受けた。...

 
以下は
水原紫苑 中日新聞 詩歌への招待月24日夕刊より
 
歌舞伎番組で水原さんの話が興味深くて覚えました。。
 
原一男監督の映画「ゆきゆきて神軍」と、死刑に処せられた
永山則夫の「無知の涙」「木橋」に言及されたので感激です。
 
中日新聞からの引用始め
 
世界はまず言葉から壊れてゆく。(真実です、アベの言葉は腐敗しきってる)
言葉が死ぬ時、世界も死ぬのだ。
 
私たちはその現場を日々目のあたりにしている。
恐ろしい。生きてるうちにこんな時代が来ようとは思ってもいなかった。
 
(同感ですが一方では現代史を勉強していた時安保条約があるから
日本はアメリカの戦争に巻き込まれる危険があると知ったので)
 
原一男監督の映画「ゆきゆきて神軍」と、
 
死刑に処せられた
永山則夫の「無知の涙」「木橋」を今味わっている。
ここには力強い言葉がある。
 
子供たちに美しい言葉を、美しい世界を渡したい。
 
共謀罪ある世に生(あ)れむみどりごのひとみ大きくみひらかるべき
 
あかねさす紫野ゆきゆきゆきて、神軍けふをとどまらざらむ
 
黄の蝶は永山則夫忘られて夏をさまよふ腐敗の世紀
引用終わり
 
永山はあまりにも気の毒な子供時代を送った人で
逮捕された時は19歳10ヵ月なのに死刑となった。
 
獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役という減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁の上告棄却により1990年4月17日に死刑確定)。
1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。
1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会に入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次筒井康隆柄谷行人井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった[3]。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論した。その一方、1996年ドイツザールラント州作家同盟には正式入会を果たしている。
獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しいといえる。