riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

戦慄の記録インパール、目が離せません

 
牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月 2日
 
戦後罵声を浴びたと言われるが当たり前。
 
自分は日本にとんずらし、80近くまで生きた。
 
トップが無責任でソンタクで支えられて今と同じ
 
祖父に批判的なお孫さんの話をもっと聞きたい。
引用開始
作戦中止後、牟田口司令官は兵士たちに先駆けて現場を離脱。そして、その任を解かれ帰国しました
一方、牟田口司令官に仕え、『味方5000人を殺せば陣地をとれると』いう言葉を記録していた第15軍の齋藤博圀少尉は前線でマラリアにかかり置き去りにされました。
密林中に雨は止まぬ。喘ぎ喘ぎ十メートル歩いては休む。二十メートル行っては転がるように座る。道端の死体が俺の行く末を暗示する。」(齋藤博圀少尉の日誌より)
雨期の到来後、マラリア赤痢などが一気に広がり病死が増えていきました。死者の半数は戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのです
一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団は後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退しました。しかし、ようやく辿り着いた村に食糧はありませんでした。
分隊長だった佐藤哲(97)さんは隊員たちと山中で、猛獣が兵士たちを襲うのを何度も目にする。
インドヒョウが人間を食うてるところは見たことあるよ。2回も3回も見ることあった
ハゲタカもそうだよ。転ばないうちは、人が立って歩いてるうちはハゲタカもかかってこねえけども転んでしまえばダメだ、いきなり飛びついてくる。」
31師団衛生隊にいた元上等兵望月耕一(94)さんが戦場から持ち帰ったハンゴウ。
武器は捨てても煮炊きのできるハンゴウを手放す者は一人もいません。
望月さんは戦場で目にしたものを絵にかいてきました。最も多く描いたのが飢えた仲間たちの姿です。
一人でいると肉切って食われちゃうじゃん。日本同士でね殺してね、その肉をもって物々交換とか
それだけ落ちぶれていたわけだよ日本軍がね。友軍の肉を切って取って物々交換したり売りに行ったりね
そんな軍隊だった。それがインパール戦だよ。」
画像みるには↑に飛んでください。
日本兵を5000人殺して成果を上げるだと、
 
食料もすぐつきて、現地の人の水牛等奪い(紙くず同然の軍票!)
 
戦争に巻き込み、死傷者山車、日本兵の死体もゴロゴロ。
 
現地に多大の損害、悲しみを与えた!
 
日本兵も弱ればふんどしまで同じ日本兵にとられ、肉も切られて食べられる
 
「野火」ですね。
自然の美しさと人間の愚かさ「野火」←二年前に観ました。映画館で観る価値あります!
うりずんの雨」上映中の映画館で又「野火」上映しています。
 
話には聞いてました「白骨街道」でも映像や現地の方の話を聞くと悲劇が迫ってきます。
 
やらなくていい戦争。日本が攻め込まれたわけでないのに
外国まで行って日本では「勝った勝った」と報道して
 
日本兵ほど無残に死んでいった軍隊はない。
 
最高責任者は安全なところでのうのうと生きた。
 
一般兵だけ、自分が生き残ったのを恥じる
 
イギリス軍は大量の食糧を飛行機から落下させてるのに。
 
日本軍には無し。戦車?解体して運ぶ
 
これでも戦争したいですか。