渡辺崋山、田原市博物館
- 画像が消えていてすいません。
上の左の肖像画は教科書等でご覧になられたことが有ると思います。
画像は借物です。
鑑定団によく偽物が出る渡辺崋山、昨日はその弟子の椿椿山の本物が出ました。
どちらも再建のあたらしい建築物。
もうこれ見ただけでワクワクしてきました。
田原市博物館公式サイト↑
帰りの田原~豊橋の電車のなかで崋山先生と呼ぶ元小学教師の女性に出会いました。
数え12才で備前の若君の行列にあたり、乱暴受けて発奮。
その事件を表す銅像が博物館展示の最初にあります。
HPに銅像の写真あり。
幼いころより非常な苦労を重ねて勉学習画に励み累進し江戸家老になった。
晩年貧苦の中で買い集めた書籍幅570種を後進勉学のために藩主に献上
この中までタクシーで入れます。
私は崋山や高野長英野ような人物を尊敬します。
「長英逃亡」等昔読みました。
今回の展示では崋山の二人の女性の弟子を含め椿山・永村茜山、現代の画家の作品を観ることができました。
華山が春沙に宛てた手紙が残っており、春沙が両親の手伝いに忙しく画に没頭できないもどかさを華山に相談すると、華山は「絵を描くことと世の中の俗事を別々に考えているからもどかしく感じるのです。私はどちらも分かち難く結びついていると考えます。これはこじつけの理屈のようですが、そう割り切ら無くては、芸などというものは天下無用のガラクタになってしまいます。ですから、ご両親に仕えて親孝行をしている時は、一幅の「孝経図」を描いていると思ってご覧なさい。絵を描いている時は教典に倣っているのだと思ってご覧なさい」と、修身と画道の追求は表裏一体だと説いている。wiki
崋山の父は100石の上級武士だったのに、藩の財政難と養子だったと言う理由で12石に減俸!
病身であったので医療費もかかり、多くの兄弟も他家に奉公行ったり若くして亡くなったりしています。
崋山は絵が得意だったのでその道で家計を助けました。
39歳で家老になり、鯨油による他の害虫駆除は大当たり!
天保の大飢饉でも領民優先を貫き餓死者を出しませんでした
崋山の内願により幕府は全国に唯一田原藩を表彰
崋山は鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていることを最も憂えた一人。
紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当
日本の漂流民を助けたモリソン号を追いかえしてしまった幕府に危機感を持った崋山や長英。
鳥居は崋山や長英らを1839年逮捕。
家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政批判したということで、田原で蟄居することとなった。
無実は晴れたのだが西洋事情書や慎機論が幕政批判であると言う罪で重罪になる所、恩師の献身的な嘆願書によりようやく在所蟄居の判決となった。
天保12年(1841年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、自害。
これは、今のヘイト、弱者バッシングですね、許せないです。
現代も正気を失いそうな政治状況ですが。
「不忠不孝渡辺登(崋山の名)」の絶筆の書は大きく、博物館の書は複製であっても胸をうちます。
愛弟子椿山への遺書に[数年の後悲しんでくれる人もありましょうか」言った崋山。泣けてきます。
崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年3月15日(1868年4月7日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。
1868年罪科赦免、1891年功臣として正四位を贈られた。
同心勤務をしながら、微禄を補うために画を志した。はじめ金子金陵に就いて沈南蘋風の花鳥画を学んだが、金陵が死没してしまい、その師・谷文晁に一時入門する。17歳の頃、同門の渡辺崋山を慕い崋山塾に入門。崋山を終生の師とする。はじめ椿山は同門の者から不器用といわれたが、画の修業を怠らずたいへんな努力をした。これを知った崋山は「後に必ず名をなすだろう」といったという。早い時期に槍組同心を辞職し、画業と学問に専念する。
椿山は穏やかで誠実な人柄であり寡黙であった。友人からは「飯少なく、遊少なく、眠少なく、言葉少なく、磨墨少なく、着筆少なく、彩色少なく、酒を飲まず、女に近付かず、煙草を喫せず、故に十少と称す」と評されていた。
親孝行で知られ年老いた母を孝養で報いた。子弟の情宜にも篤く崋山が蛮社の獄で捕らわれた際には、救済運動の中心となり奔走した。崋山自刃後は弟弟子の福田半香・平井顕斎らとともに献身的に遺族の後見をし、崋山の二男・小華を弟子に迎え養育して後に養女の須磨を娶らせた。また密かに田原まで亡き崋山の墓参をしている。
↓椿山の花鳥図
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