riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline"> 『だまされることの責任 佐高信X魚住昭』</span>


偶然、図書館で借りた本  『だまされることの責任 佐高信X魚住昭

その最初に掲げられているのが『戦争責任者の問題』伊丹万作より

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぽつぽつわからなくなってくる。(中略)
日本人全体が夢中になって互いにだましだまされたりしていたのだろうと思う。

このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(中略)

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして、連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、誰の記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。(中略)

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。(中略)

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

そしてこのことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(後略)映画春秋1946年8月号



伊丹万作の「赤西蠣太」を観て感心したことがあるのだが、これ読んでまったくその通りなのに驚くやら情けなくなる。

今回の「後期高齢者医療制度」でも盗聴法、改正住民基本台帳法、「日の丸君が代」強制、イラク派兵、自己責任バッシング、小選挙区制等みな同じ。

だまされてもだまされても選挙で某政党を勝たせる。

2世、3世の坊ちゃん議員は庶民の痛みなんかわからない。年金など払わずとも、医療費がどれだけかかろうとも、前線にも絶対行かないんだから関係ない。愚かな庶民から絞りとればいい。


ほとんどの国民は弱者なのに反対意見言えばお先だって弱者が弱者を徹底的に叩き潰す。

この国の奴隷は、どこまでだまされれば気が済むのか?

「だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない」