riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">一枚のハガキ</span>

 
太平洋戦争末期、中年兵として招集された松山啓太ら100名の兵士は、上官によるくじ引きで決められた戦地に赴任する事になっていた。くじ引きが行われた夜、フィリピンに送られる事になった仲間の定造から、妻より送られてきた一枚のハガキを手渡される。定造は、もし啓太が生き延びる事ができたら、妻にハガキは読んだと伝えてくれと依頼する。やがて戦争が終わり、生き残ったのは啓太を含め100名のうち6名だけだった…。goo映画より
 
定造は薄幸の女性友子と結婚するとき田を売ってしまったんで小作で暮らしていた。
 
仏間にはたたみもろくにない。定造、友子夫妻は納屋に住んでいた。
 
どんなときもご飯を作り、水を川から運び、それを沸かして飲んでいる。過酷な農作業と水運び。
 
最後に麦作りに励み実る麦、一番大事なのは作物と水、それを汚してしまうのが原発事故。

 
 


 
 
 
 
カラーは今回の映画、
 
モノクロは新藤監督1960年の裸の島http://nihon.eigajiten.com/hadakanosima.htm乙羽信子
 
そっくりでしょう。
戦中戦後の話なのに大竹の衣装が現代的だと思ったら乙羽さんへのオマージュもあるのでしょうか。
 
乙羽信子は元宝ジェンヌで戦後、再開された公演で娘役トップスター(主に雪組公演出演)として淡島千景と人気を二分し、男役トップスターの上級生、春日野八千代の相手役として戦後の宝塚歌劇第一期黄金時代を支える。
1950年、娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島千景に倣うように退団。
退団後、大映に入社する。大映は、宝塚歌劇団時代から人気のあった「えくぼ」に「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『処女蜂』で、上原謙と共演した。その後、何作かに出演したが、魅力を出し切ったとはいえなかった。しかし、1951年新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を好演し、映画界でもスターの地位を手に入れる。

近代映画協会新藤兼人 [編集]

1952年松竹を退社して「近代映画協会」を設立していた新藤兼人の第1回自主制作映画『原爆の子』に大映の反対を押し切って出演する。これを機に大映を退社し、近代映画協会の同人となる。
以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢さま女優」「百万ドルのエクボ」「清純派」のイメージから180度転換し強烈なリアリズムあふれた演技を見せ、日本映画史にその名を残すこととなる。それを象徴する作品で、代表作となったのが、1960年の『裸の島』である。せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受ける。WIKIより
 
演劇見慣れない方の中には大竹しのぶを大げさな演技などと、非難されるのが寂しいです。
 
あれだけの侵略戦争を起こしながら今も政治家などには真の反省もなく今又国民を地獄に落とそうとしています。
 
だからあれぐらいの激しさで鼓舞して頂いていいのです。
 
新藤監督、大竹しのぶ、がんばってくださいました。
 
身毒丸でもそうですが大竹さんは歌も歌ってくれています。いつまでも可愛くて、稀有な実力のある方です。
 
9.19東京、10万人も集まったのではないかといわれる方もあるぐらい、60年安保反対運動以来とも。
 

デモ逮捕は見せしめ?「9.11脱原発」半数以上立件見送り (東京新聞)

 
映画の話に戻ると
 
映画陸に上がった軍艦http://www.youtube.com/watch?v=-IBh_MrPkn8で描かれていたいたので知ってはいましたが先日の舞台身毒丸でも凄い演技を見せてくれた大竹しのぶは見なくてはと思い昨日映画館へ。
 
陸に上がった軍艦では上官のいわれないリンチ、初年兵いじめ、もうろくな軍艦もなく、板の戦車で訓練する場面が出てきます。
 
軍隊の凄惨なリンチ、いじめは映画真空地帯や人間の條件http://www.youtube.com/watch?v=uYYHlKZlNkkに詳しい。
 
今日で公開も終わるので昨日の女性ディも満員でした。
 
有名なせりふ、「今日はお祭りですがあなたがいないので何の風情もありません」
 
陸に上がった軍艦でも大竹さんがナレーターを務めています。
 
この映画によって新藤兼人監督は、2003年6月の第25回モスクワ国際映画祭で特別功労賞を受賞
大竹しのぶは最優秀(主演)女優賞を受賞した
 

 
一枚のハガキで最後に大竹がワンピース姿になるのですがそれが映画ふくろうのこの服を連想しました。
 
 
時代は1980年頃。舞台は東北地方の山奥にある希望ヵ丘開拓村。ここは役所からタダで提供された開拓地。ここには、すべての財産を売り払って満州へ出かけていったため、やっと日本に戻ってきても帰る場所のない、満州からの引揚者たちが、最後の希望をもって入植してきた。しかしそこは名前とは裏腹に、「不毛の地」だった。いくら努力しても作物は育たず、そこで食っていくことは不可能だったのだ。そのため20軒の入植者は次々と・・・。



 
 
上は朝日費新聞。
 
大竹しのぶの写真の横の写真は彼女の祖父母吉川一水と妻八重子
その下の写真は1906年、サンフランシスコの八重子、右端に幸徳秋水

 
大竹しのぶが手にしているのは祖父の100年前の辞書。
祖母八重子は内村鑑三の聖書講読の会に出て皆に愛された少女だった。
八重子は社会主義者に近づいていた。日露戦争で非戦論を唱えた幸徳秋水は弾圧を逃れるようにサンフランシスコに。同行者三人の一人が八重子。赤ちゃんを抱いている!

 島型原爆2280個分の「死の灰」が六ヶ所村に到着

 追記
新藤監督はリアルなひり島原爆投下の映画を撮りたいと言われていました。
いち早く乙羽信子主演で「原爆の子」を作られましたけど。
 
大竹さんは乙羽さんにつぐ、監督のミューズですね。お三人とも尊敬しています。