モリのいる場所、だれでもモリは仙人と思える
庭の生物が沢山出てくるのですが、猫はなかなか出てきません。
くすくす笑えます。
冒頭の林与一、渋い
熊谷の絵は子供の絵に間違えられる?
でも普通の人には描けるものではない。
猫の絵も抽象画ですね。
熊谷は裕福な家に生まれたのですか子供を育てる頃は困窮し次々子供をうしまいます。
亡くなった子供を描いた絵も有名。
愛知県美術館常設展に熊谷の絵が有るのでお馴染です。
愛知県の資産家・木村定三が熊谷守一の作品に惚れ、買取の個展を開くなどし、熊谷の名は晩年にかけて広く日本の画壇に名を知られるようになった。木村定三が集めた熊谷のコレクションは100点を越え、その全てが現在は愛知県美術館に所蔵されている。
文化勲章も要らない、来客が増えて妻が困るからと。
山崎務も希林さんも上手くて、普段はもっと若いのに。
熊谷は岐阜の付知の出身で
随筆集『へたも絵のうち』も興味深い。
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。
1922年(大正11年)、42歳で大江秀子(?-1984)と結婚。5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。
4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの(「陽の死んだ日」1928年/大原美術館)、結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)の病床の顔を描いた作品、その萬が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948-55年/岐阜県美術館)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」1948年/豊島区立熊谷守一美術館 寄託作品(個人蔵))なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。
ご本人は仙人と言われるのは好まなかったそうです。