化粧2題
7月はめちゃめちゃ散財してますがどれも観て良かった、見逃したら公開するような作品ばかりでした。
友人にも困った人と言われるので内緒。
1時間半の休憩なしの舞台。
2人は本当はつながりはない。
「瞼の土俵入り」の内野さん、かっこいい~
9月の豊橋公演「最貧前線」買いそびれたけど、当日券に並ぶべきか、
動物園に行きながら(;´д`)トホホ
テレビ放送してくれないでしょうか。
宮崎駿作品で「平和がなによりだ~」という舞台だから。
豊橋、いい作品出します。☟
昔は金返せというような歌えないアイドルのミュージカルや長いだけの新劇もありました。
「化粧」は一人芝居。
渡辺美佐子野「化粧」はテレビ鑑賞だったのか、最後の狂気の場面覚えています。声もあの雰囲気も好きす。よくこの作品にあっていました。
今回は有森也実とはもろ肌脱ぐ女座長をよくやろうと思いましたね。
内野はミュージカルエリザベートに出たくらいなのでこの芝居でもちょっと歌ってくれてうれしかったです。
ぴったりでやはり舞台で輝く人ですね。
彼の生の舞台ははじめて。
この子供を孤児院に入れるというのは井上さん自身の体験、
親がいるのに孤児院に預けられるとほかの子供にいじめられる
それを井上は道化師に徹し、いじめを逃れたという。
孤児院で献身的に育ててくれた修道士も姿は見えないのですが、
内野さんの演技力で見えてくるよう。
1934年(昭和9年)11月17日、井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる[2][3]。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『サンデー毎日』第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた[4]。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、『H丸傳奇』の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する[5]。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた[4]。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。
母は一関市で飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げたが、経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ人修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰といじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という[6]。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している[7]。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。
日本特殊陶業市民会館 ビレッジホール