riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">裁判員制度の正体</span>



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写真はコッツウォルズ、チッピングカムデンのマーケットホール、17世紀にたてた建物。

だいたい、胡散臭いなと思っていた裁判員制度、この本読んでここまでひどいのかと戦慄を禁じえません。

先日の生田弁護士
http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/folder/897290.html
はこれは平成の治安維持法と言われていますが西野喜一さんは、これは現代の赤紙徴兵制だと書いています。

憲法改正への地ならしです。



誤判、冤罪が増える、被告人は法廷で自分の意見を聴いてもらう機会もなく未決拘留されたままになる!その間に真犯人は逃げる。

興味本位の尋問の可能性がある。被害者が傷つきます。

裁判員候補者のプライバシーはない!

裁判長の質問や質問票に虚偽を回答すると前科になる最大50万円の罰金!

憲法では黙秘権を保証しているのにくじ運悪くプライバシーの中でも

重要な事項、微妙な事柄、思想信条、前科、経歴などについて問われ

そういう質問について答えたくないと言えば制裁を科すというのでは意見です。

裁判員として引っ張られただけの人に乱暴な不都合ばかりの裁判員制度です。大事な仕事、育児、介護、旅の計画、私など観劇もおジャンです。

プロの裁判官に高い報酬払ってやらせていることをどうして素人が出来るのか。大変乱暴な制度で巨額の費用もかかります。

西野さんは3年持たないかもしれないと言われますがその間にやれと言われたら…

これから逃れる方法も書いてくれています。

伊丹十三の「知る楽」で非常に面白いテレビ番組を制作していたことを知りましたがその父万作は又鋭い人です。

だまされる責任
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。


 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。 

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。 

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

(『映画春秋』昭和二十一年八月号)原文の一部です。