たったひと言で「スパイの子」!
戦前・戦中に「スパイの子」として厳しい扱いを受けた体験を語る目崎久男三、名古屋市内で。
中日新聞8月12日朝刊
太平洋戦争直前から戦中にかけ、元愛知県職員の目崎久男さん(85)=名古屋市北区=は「スパイの子」「非国民」と、周囲から激しい非難を浴びせられた。何げなく口にした一言が誤解を呼び、「戦争の異常な雰囲気が生んだ、民衆のヒステリー」の標的となった。「あんな社会が、二度と来ないように」。終戦から七十三年の今夏、初めて経験を語る。
太平洋戦争開戦前年の一九四〇(昭和十五)年春から年末にかけ、目崎さんは海運関係の仕事をしていた父親とともに一家で太平洋のサイパン島で暮らした。
しかし、官憲の姿が見えなくなってからが、本当の地獄だった。壁に「スパイの家」と落書きされ、近所の人たちから石やふん便、動物の死骸が投げ込まれた。火の付いたわらまでも。母や、幼い弟らを含む家族皆が「非国民、死んじまえ」とののしられ、目崎さんは学校で、教師から口に赤いテープを「×」の字に張られた。
不安定になった母親は、ロープを手に「みんなで首をつろう」と迫った。四一年十二月に太平洋戦争が始まったころ、一家は逃げるように名古屋市に転居した。「自分が何げなく口にした一言で、危うく一家心中するところだった」
名古屋では、そうした一家の事情を把握している人はいたものの、周囲は温かく目崎さんらを受け入れた。だが、終戦が近づき、軍事教練を受けていた際、教官の軍人から「根性が曲がったやつが一人いる」と木銃で殴られるなど、理不尽な暴力を受けた。